第18回山頭火俳句コンテスト入賞作品


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2023/06/18

川棚を愛した漂泊の俳人・種田山頭火にちなんで毎年開催している「山頭火俳句コンテスト」、第18回となる今年は26都府県672名からのご応募をいただき、厳正な審査の結果、最優秀賞1名、優秀賞5名、特別賞5名、佳作10名を選定いたしましたのでご紹介いたします。
句評は審査委員長を務めていただいた倉本昭先生(梅光学院大学教授)によるものです。

★最優秀賞1名★

冬の夜藁持ち搗いていのこいのこ
  亀田星夏さん 夢が丘中学校3年生

<句評>
冬の句。亥の子祭という行事が全国的にあって、旧暦十月―今の暦で11月の、最初の亥の日に、豊作を祈って行います。子供たちが、その日の夜、村町を回り、歌をうたいながら、ワラで作った棒状のもの「いんのこ(わらぼて)」で地面や縁側を叩くまじないをするのです。それを「ワラを持って地面をついて」と詠んでいます。烏山資料館に「いんのこ」が保存されています。地域によっては、臼のような石に何本もの縄をつなぎ、それを子どもたちが各々一本ずつ持って、臼を上げ下ろしし、地面をつくところもあります。「いのこいのこ」の歌は小月や彦島熊毛町(くまげちょう)にも残っています。その歌詞を大胆に下五においたことで、句に躍動感がもたらされ、余情(つまりイメージと感動の広がり)さえもがうまれたのです。具体的にいえば、祭の風景が眼に見えるよう。耳に聞こえるよう。季語がかもす寒さも、吹きとぶような熱気が伝わるということです。たった17文字の中にです。これぞ俳句芸術のだいご味!
今年度の最優秀賞は、ひさびさに生徒さんが獲得されました。
おめでとうございます。今後も俳句に親しんでください。

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★優秀賞5名★

玉虫の瑠璃を放てり樟の杜
  小野智輔さん 大分県在住

<句評>
季語は玉虫で夏の句。タマムシが好む木はエノキなのですが、作者は大クスに飛来したタマムシを見つけたのです。つやめくルリ色の翅(はね)は、古来、神秘的な装飾に活かされてきました。法隆寺にある玉虫厨子が有名ですね。作者は、クスの深々とした緑と、タマムシの緑の光彩が、相映じあうさまに感動しているのですが、そこに自然界の生命の神秘的なつながりを読み取っていることはいうまでもありません。つまり、クスの生命力がタマムシの緑に一層輝きを添えたのではないでしょうか。色彩感あふれ、印象あざやかな句です。

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新月を踊る樟おばけ翔る馬おばけ
  遠藤玲奈さん 東京都在住

<句評>
新月は俳句の世界では陰暦八月三日の月のことをさします。秋の季語です。まずは、一句をどこで分けて解釈するかについて、説明しましょう。
新月を 踊る楠おばけ 翔る馬おばけ
と字余りに切るのが、まずは妥当でしょう。クスが風にあおられるさまを踊ると表現したうえ、クスのもとに埋められた名馬・雲雀毛の霊も大木の周りを翔けめぐると、幻想味あふれたイメージが提示されています。木霊(こだま)と霊馬を妖異のものとみなし、しかも、ひらがなで「おばけ」とした点は、どこかユーモラスで、「踊り」「かける」の語のもたらす動的な印象とあいまって、一句がグロテスクや奇っ怪趣味に堕ちるのをまぬかれています。満月にしないで、新月にしたのも、神秘感を増すのにあずかっていますね。
「となりのトトロ」の有名な場面を何となく思い出してしまいます。

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十三仏お座す札所の春野かな
  内田ひふ美さん 下関市在住

<句評>
春の句。川棚中小野(なかおの)・岩谷(いわや)の十三仏を詠んでいます。山あいの田園をみおろす岩場に、十三体の石仏(いしぼとけ)が鎮座しています。大内義隆の供養のため、まつったと伝えられています。物故者の初七日から三三回忌まで、十三回の法要のそれぞれを司る、十三の仏たちです。ここは狗留孫山霊場八十八か所の第四十五番札所にあたります。春、草や木の葉が淡い緑にかがやき、あげひばりが鳴いている、のどかな風景のなかで、静かにたたずむ石仏(いしぼとけ)。「春野」の季語には、こうして、色彩や音までもあふれています。また、「おます」の語感から、素朴でかわいらしい石仏が彷彿とします。
※お座すは「おはす」「おます」の両様に読めます。ただ「おはす」は漢字を当てないのですが、「おます」は「御座す」と充てることがあります。言葉の意味としては、「おます」が「~でおますによつて」などと補助動詞として使われるのに対し、「おはす」は「いる」「ある」の尊敬語で、句意に沿います。

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移住決めここの土とならう梅二月
  山内けい子さん 下関市在住

<句評>
春の句。いわずとしれた、山頭火が1932(昭和7)年6月21日に、川棚で詠んだ
花いばら、ここの土とならうよ
を踏まえています。年があらたまり、作者は、新天地に梅の春を迎えられました。白く、赤く、ほころび、ほんのり匂う梅の香を、胸いっぱいに吸い込まれた。コロナ禍の出口も見え、ひさしぶりに自然の息吹を体につめこまれた。そのとき、移住した地に、骨をうずめようと決められたのです。移住する決意から、さらに更に進んだ、決意です。それだけに、一句には人生のリスタートへの意志があふれ、力強さが感じられます。そして、川棚を「終の棲家」と定めた、山頭火への畏敬も覗えます。山頭火俳句コンテスト優秀賞にぴったりの句です。

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海と山ひとりじめして舟郡
  井村美月さん 夢が丘中学校2年生

<句評>
無季の句。舟郡は青龍湖=舟郡ダムのあたりのことです。ここの駐車場から天端(てんば)という、ダムの堤の一番高い部分をめざすと、遊歩道のようになっており、ここから遠く、響灘の厚島が見えます。反対を向けば、笠ヶ岳が迫ります。第一義的には、そうした景観を詠んでいるには違いありません。しかし、「ひとりじめして」の表現は、単に天端から山が見え、反対を向けば海景が見えるということだけを意味している(180°視線をめぐらせば海山の風景が交代するといった平面軸上の視覚体験だけの意味である)わけではありません。もしそれだけの意味の句にしたいのなら、
海と山いずれおとらぬ舟郡
海山を一望できる舟郡
これに山あれに海よと舟郡
海⇔山が180°舟郡
などと詠まれるところでしょう。しかし、本句の場合、「海」も「山」も、海の景色・山の景色という意味を超えています。それらを「ひとりじめ」するというのは、景色が見える(視覚)だけではなく、川棚をとりまく山の風土・海の風土の中に、作者が自己を定点的に置くことで出てくる言葉です。作者は歴史や伝統・風習さえも、ひとりじめすると感じていることになります。ダムの天端でぐるり周囲の景色を眺めまわした作者は、その意識を、天から川棚を眺めおろすイメージにきりかえ(グーグルアース/航空写真やドローン映像などに親しむ若い世代ならば、このようなイマジネーションの展開は容易なはずです)、さらには、歴史と伝統が横たわる時空に思いをいたし、一句を工夫したのではなかったでしょうか。舟郡ダムの天端に立って思いをこらせば、この川棚が、海-山両方の風土にめぐまれた、かけがえない文化と伝統のある土地だと気づかされる。いわば海と山をひとりじめしているようなものだ、という句意にとれます。それにしても、「ひとりじめ」なんて!なかなか洒落た、思い切った表現で、その若い覇気に好感がもてます。

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★特別賞5名★

湯気の香と桜一輪足向う
  北條祐二さん 下関市在住

<句評>
川棚温泉賞。
春の句。露天風呂に、散りまがう桜の一輪が舞ってきたのでしょう。それも湯の中でえいやと伸ばす足先のあたりに。春の風流のひとこまです。花を風に託すのは気が気でないものですが、湯に舞い込んだとなると、花を惜しむ気持ちより風流心が勝ちますね。作者の心に、春を満喫するのどかな思いを読み取れば、川棚の湯のだいご味も伝わるというものです。ところで、川棚の湯は無臭ですから、「湯気の香」の語にひっかかる鑑賞者がいるかもしれません。しかし、これは桜一輪が散ってきたことと絡めて置かれた虚の詞で、桜一輪という実の詞とともに、一句の芸術性を保証するものです。俳句は文学ですから、虚の詞を厭いません。桜の花一輪落ちることで、湯がにおいたつようだという文学的真実を謳っているのです。

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本堂につづくお参り道主忘れじとやぶ椿咲く
  宇野啓生さん 山陽小野田市在住

<句評>
川棚古刹巡礼賞。
椿は春の季語。川棚・三恵寺の参道に植わった椿が、いっせいに花開くさまに、参道を整備された住職の面影を慕うという句です。三恵寺は川棚温泉の開創に関わる伝説を有した古刹で、化け蟹の恐ろしい言い伝えも残っています。そんな妖異伝説も忘れるくらいに、「わびさび」にあふれた静閑な境内は、整備が行き届いています.
作者は平成から令和にかけての三恵寺の歴史に立ち会ってこられたのでしょう。一句を通じ、ご住職の営為に賛辞を捧げているようです。菅原道真が、「あるじなしとて春を忘るな」と歌った逸話も意識されています。

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響灘ぷかりと浮かぶ翠緑の島
  吉岡龍杜さん 夢が丘中学校3年生

<句評>
アルフレッド・コルトー賞。
季語はありません。アルフレッド・コルトーが一目ぼれして買い取ろうとした厚島を詠んでいます。響灘・翠緑という硬質な漢語と、「ぷかり」というオノマトペとのギャップが絶妙な効果を生んでいます。この中七がないと、一句はかなり硬いイメージになってしまったことでしょう。やじろべえのように、中七が初五と下五の間でバランスをとっています。厚島の翠緑は、青空と紺碧の響灘(ブルーのグラデーションを成す背景)から浮き上がり、海面に漂うように見えるというのです。往年のコルトーも、ホテルの窓から眺めた島に、同じ感懐を抱いていたことでしょう。

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さわさわと静かに揺れる楠若葉
  山村咲妃さん 夢が丘中学校3年生

<句評>
千年くす賞。
夏の句。初夏に楠木の若葉が出ます。緑にやや赤みがかった色合いがまじります。さわさわという初五が清新でさわやかです。楠若葉を見事に表現しえた一句といえましょう。さて、川棚の千年クスは枯死の危険がとなえられて、もう随分経ちます。しかし、再生への道は一年二年で目に見える効果をもたらすものではありません。それでも作者は若葉の彩を見つけて、再生への道を確信したのです.
楠のさやぎは、千年の命がいまだ絶えていないことを人間に知らしめます。

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もりや川きらきら光る三角形
  尼子千歳さん 誠意小学校5年生

<句評>
川棚花鳥風月賞。
無季。もりや川は杜屋川で、黒井川のことです。ここは夏の蛍鑑賞で知られています。蛍は豊田や長府に限ったものではありません。風波のクロスロードに沿って流れ、豊洋中やゴルフ場の脇を海に向かって注ぎます。なんといっても面白いのは、黒井川にホタルならぬ、お星さまのきらめきをとりあわせたところ。わざわざ「星のこと」と註をつけたのも、そこに詠み手の作為の中心があったからです。三角形は夏や冬の夜空にあらわれる大三角形のことでしょう。それが実際川面に映りこむわけではなく、せせらぎが街灯にきらめく様を星空にたとえ、天界の大三角形と対比させたと解するのがよいでしょう。中七「きらきら光る」は前とうしろ両方にかかります。

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★佳作10名★

冬銀河尺八寸のおだけみち
  河野通雄さん 下関市在住

<句評>
冬の句。おだけみちとは、御岳道で、狗留孫山参道のことです。尺八寸と狭隘さを詠んでいますから、ここは修禅寺本堂から更に登る奥の院参道と理解してよいでしょう。自然探索路と表示板がありますが、枯れ葉敷く山道に杭と丸太で階段をとりつけただけの、足元がなんとも危なっかしい参道です。尺八寸は、白髪三千丈式の表現。険しく足元おぼつかない参道から宙を見上げれば、冬の銀河が輝いていたという、これは何とも浪漫あふれるイメージです。空海が霊光に導かれて山に登ったという伝説を想起して詠まれたのかもしれません。このような絶景を見るのには超人的修行者がふさわしいからです。

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白鷺の白きが白き青田かな
  河上輝久さん 大阪府在住

<句評>
季語は青田で夏の句。鮮やかな翠をなす青田に、虫をあさる白鷺がポツポツと佇立しています。その透き通る如き白が、空の青と田の翠を背景に、一層まばゆい光を放つという句意です。写真を見るような、くっきりした映像が浮かんできますね。「白きが白き」という措辞の工夫も秀逸。惟然という芭蕉の弟子が、
梅のはな 赤いはあかい あかいはな
と詠んだのを思い出します。

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春の空川棚の青吸い上げて
  柘植雅一さん 愛知県在住

<句評>
春の句。川棚の青という表現をどう解するかがポイントです。田植えにはまだ早いわけだし、ここは季語でいえば「山笑う」季節以降、初夏の「新緑」より前の山野を指すとしておきましょう。句中にいう「青」は、実際は緑と考えるべきでしょうし、どうしても青となると、春の凪いだ海を想定することになります。しかし、厚島浮かぶ響灘を「川棚の青」と表現するのは、しっくりきません。やはり山野ととらえたほうがよいようです。
(地)春の生命力に満ちた山野の緑と照応して、
(天)空の透き通る青、うららかな照日の美しさが映えるのだなあという感懐。
天地の照応がまずもってスケール大。そのなかで、大自然の陰・陽のバランスがとれた季節の、光の美しさを詠みあげています。中七下五は、いわば現代詩的感性で置かれていて、感興にあふれています。

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打ち返すものわからないまま素振りする
  松岡哲彦さん 周南市在住

<句評>
無季。自由律。今年度は珍しい自由律の佳品です。川棚の風土に結びつけることは全くありません。山頭火俳句コンテストだから、自由律であることに意義を見出し、佳作に選出しました。ここに詠まれるのを本当の素振り練習ととらえてはいけません。本句がいう素振りは、象徴的意味合いであり、人生を生き抜くための修練を指すととらえるのがよいでしょう。句中にいう「打ち返す」とは、新たな人生への挑戦、自分の殻を破り、一段上の自分に成長するための努力のことではないでしょうか。しかし、スランプにおちいり、目標=打ち返すべきものを見失うこともある。そのときには、打ち返す行為自体が目的化します。つまり、自分は何のために、何を目指して、努力するかがわからなくなるのです。人生における迷いの時期に入ったといえましょうか。これが進めば、無気力におちいったり、人生にむなしさを感じるだけになってしまいかねません。現代日本社会には、こういう危機感や焦りをかかえた人々が少なくないはずです。作者の人生観照には、誰しも、共感することでしょう。晩年の山頭火も、同じ心境であったかもしれません。ただ、作者は自己を突き放して自問していますから、きっとこの状態から抜け出す機会をとらえるはずです。

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空の蒼海の青島の碧かな
  河原均さん 広島県在住

<句評>
季語はありませんが、多分に夏のイメージをはらんでいます。自由律。青蒼碧の使い分けが効いていて、リズムもいい。アオのニュアンスの違いから、大自然の多様性に満ちた景観に感動しています。それを自由律で詠んだのも、すばらしい。定型ではしらけてしまいます。感動の爆発が型にはめられてしまいますから。
若山牧水の名歌、
白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
がヒントになったことが推測されます。しかし悲愴感と諦念に満ちた牧水とはちがい、河原さんの句は感動のフルスイングといったところでしょう。

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大楠のざわめきお喋り真似てみる
  井上秀子さん 東京都在住

<句評>
無季の句。千年楠が風になびいて立てるざわめきに、作者は木霊の会話を聞くのです。トトロや、もののけ姫の世界を彷彿とさせます。それをまねる行為がどういうものかは、作者以外には判然としません。ここにあるのは古代の神秘的生命力とシンクロする現代の少女の霊性だといえます。若い世代が、ここまで大クスにのめりこむこと自体、大クスが天然記念物を超えて、川棚の人々の魂に根をおろすカミ的存在であることを証するのでしょう。

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風なびきクスクス笑う大きな木
  比嘉心颯さん 夢が丘中学校2年生

<句評>
無季の句。大クスを擬人化して詠むパターンは少年少女の常ですが、この作はクスノキにかけて、語呂あわせのように、「クスクス」とオノマトペを置いていることからもわかる通り、清潔なユーモアを狙うものです。しかし、そんな言葉遊びだけにはとどまりません。風にあおられ、なびき、ざわめく大クスが、まるで卑小な人間社会を高みから見下ろし、笑っているようだというのです。人智を超えた古代の生命力への驚きを作者は感じているのですね。山は笑いますが、古代樹も笑うのです。

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なんだろうちりちりちりりむしのこえ
  三さわ陽さん 川棚小学校3年生

<句評>
秋の句。チリチリチリリという擬音語が正しいなら、これはカマドコオロギかカネタタキなのですが、俳句は虫の声当てゲームではありません。とにかく、草原や田畑で聞く秋の虫、姿は見えないが、何の虫だろうという、素朴な句です。全部ひらがなで処理し、小さなこどもの気持ちを代弁したような句に仕上がっています。見えない藪の奥の夜のコンサートに、作者は子ども心を失わず、あこがれをもっているのでしょう。

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山頭火温泉好きだがさようなら
  神崎武丸さん 川棚小学校4年生

<句評>
昭和7年、西暦でいうと1932年に、山頭火は川棚にやってきました。5月24日に川棚での最初の五句を記しています。
6月21日には、
花いばら、ここの土とならうよ
の句を詠んでいます。しかし、彼が滞在したのは100日ほど。川棚は山頭火を受け入れられる土地ではなかったのです。
けふはおわかれのへちまがぶらり
これは8月27日、川棚への惜別の句です。
私は山頭火にまつわるシンポジウムを川棚で開催したとき、参加させていただきましたが、まだ山頭火のことを覚えている方がいらっしゃいました。
日中から酔って、共同浴場の浴槽脇で寝ていた、
泊り客に俳句の短冊を売って、もらった金をすぐ焼酎に代えた
とか、風来坊的なおもかげを聞く事ができました。しかし、そんなかわった半俗半僧の者は村人の誹謗中傷の対象となり、ついに山頭火を川棚に置くか否かの会合が行われたそうです。結果、彼は小郡へと転じます。県内には近木圭之介や兼崎地橙孫といった支援者がいたので、他県に流れていかなかったのでしょう。
一句は山頭火の川棚との別れを詠んでいますが、山頭火は温泉だけではなく、川棚の風土そのものを好いていたようだし、離れるにあたり未練が残る恩人たちもいたのでした。でも、さよならだけが、人生だ、なんて名言もあるくらい。山頭火は地を転々として、俳句芸術をつむいでいったのです。

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春風や歩いて帰る通学路
  山田華蓮さん 大阪府在住

川棚温泉山頭火俳句コンテストですから、この句は川棚の風土にもとづいて再解釈させていただきます。温泉のある湯町からJR川棚温泉駅までは、青龍街道という一本道を20分くらい歩きます。川棚小学校は、それよりもう少しかかるでしょう。夢ケ丘中学校にいたっては、川棚温泉駅の次の駅の近くにあります。小学生や中学生は、毎日、まだ田畑が残る風景の中を歩いて通います。秋にはコスモスがゆれ、夏には鬼ケ城連山の深緑がきわだちます。町の東には山並み、西には駅をはさんで響灘。沖には厚島という小島がでんと浮かんでいます。そんな絶好の自然に囲まれて、春風が吹くと、生徒たちはうきうきと、春の花々をめでることを期待しながら、歩くのです。そして、歩くなかで、小さな発見をしていきます。路辺の小さな花、テントウムシ、川に泳ぐ子魚たち…すべてに春はきざします。歩いて帰る通学路なんて、あたりまえじゃないか、と思うなかれ。春は毎年、通いなれた通学路を新鮮なおどろきで満たしてくれるのです。それは冬のこごえる通学路とは異なり、命のざわめきをともなっています。また、新学年へのドキドキと期待に胸おどらせて、子どもたちは、いつもの道をたどるのです。歩いて帰る通学路があって、それがいま、春らしい印象で輝くすばらしさに、驚き、また、感謝する。「歩いて帰る通学路」から、ことばそのままのフラットな情報を読むだけでは、俳句の鑑賞になりません。「春風や」の初五ととりあわされて、この段落で述べたような、豊かなニュアンスがほとばしりでるのです。


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豊浦観光協会